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源義経黄金伝説■第56回

源義経黄金伝説■第56回

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■ 1189年文治5年7月 鎌倉
「さあて、源氏の古式にならい、旗をあげる時じゃ、広元、準備おこたりない
か」源頼朝が言った。
大江広元は大江国房の孫である、大江国房が参謀として計画、奥州平泉に攻めいるは鉱山貴族である、源氏が100年程前から「前九年の役」からの野望であった。
「源氏の血を奥州に広めねばならん」

「大殿(頼朝)様、日本のすべての国に動員をかけませ。頼朝様の見方かどう
か判断できましょうぞ」
「ということは、源平の争いのおり、我が源氏の軍に刃向かいものどもにも、
動員をかけるわけか」

「さようでございます。今天下は大殿さまに傾きつつあります。誰が見方か、
敵か、この動員に参加するかどうかで見事にわかりましょうぞ。これにより、
大殿様の天下草創が周知徹底できましょうぞ。すなわち、源氏が武家の王であ
ることが見事証明できましょう」
「わかった。みなまでいうな。大江広元、その力をもって平泉を征服しょうぞ」


武家としての源氏、平家の関東制覇と奥州攻略の歴史は長い。奥州の金鉱石を狙い血みどろの争いが続いた。
東国では、名高い平将門(まさかど)の乱の後、1028年(長元1年)平の忠常(ただつね)が反乱を起こした。千葉氏の祖である。

追討使は源頼信。多田の満仲の子供である。多田(現兵庫県川西市)の源満仲は、源氏、武家の始まりとされ、多田銀山の銀を持って貴族に取り入り、京都王朝での立場をきづく。

源頼義(よりよし)は奥州に攻め入り、前九年の役(1051年から1063年)、後三年の役 (1083年−1087年)を通じて関東平家を郎党とする事に成功した。

源頼義(よりよし)は、板東の精兵を、奥州の乱の鎮圧に動員した。その契機は平直方(なおかた)の娘婿となったからである。
平忠常(ただつね)の乱のお り、平直方(なおかた)は追討使となり、源頼義(よりよし)の騎射の見事さ に感心し、娘を嫁がした。

平直方(なおかた)は鎌倉に別荘を持っており、源頼義は義理父からこの屋敷を譲り受ける。
鎌倉は関東平氏のの勢力範囲であったが、源氏は関東地方に人の支配権を得た。源頼義の子供であり平直方(なおかた)の外孫である義家(よしいえ)は、前9年の役、後3年の役でその武名を天下にとどろかせた。

源義家よりの4代目が、源頼朝源義経の兄弟である。

後三年の役は1087年に 終わる。

その100年後、頼朝の私戦、奥州大乱は、1189年7月に鎌倉の出発を持って始まる。

源頼朝は、新しい日本歴史を作ろうとしていた。

日本の統一である。

■6  1189年(文治5年)9月 平泉王国   


奥州王である藤原泰衡は悲しくなった。
なぜ私が攻められるのだ。

(約束を守ったではないか。ちゃんと頼朝が言うとおり、義経を殺し、その首
を差し出したでしないか。義経を差し出せば、奥州は安堵するという約束をし
たではないか。くそっ、西の人間など、やはり信頼できぬ。この戦どうしたも
のか。助かる手段はないものか。そうだ、ともかくも頼朝に平謝りに謝ろ
う。そうしなければ、親父殿、祖父殿に申し訳が立たぬ。この身、どうしても
奥州仏教王国守らぬばのう。
 そうだ、まだ西行がおる。あやつを捕まえ、頼朝に申し開きもうそう。そう
だ、それがよい。
奥州の平泉王国第4代国王、藤原泰衡は思った。

一瞬後、その命が吹き引き飛んでいた。
郎党、河田次郎の裏切りであっ た。

奥州黄金郷は、ここに滅んだ。

1189年(文治5年)9月3日の事である。

(続く)●山田企画事務所
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