yamada-kikaku’s blog(小説ブログ)

山田企画事務所のペンネーム飛鳥京香の小説ブログです。

義経黄金伝説第0章

義経黄金伝説

@第0章@ーー作者独白ーー
1990年盛夏、著者は、鎌倉にある頼朝に関する遺跡の数
々を訪れていた。頼朝
公事跡の裏山にそれは合った。
大江広元公の墓である。
江戸時代末期、長州藩家老周布が江戸賛府のおり記念の
碑を作っている。ま
た、島津家もこの大江家を祖とする。大江広元は、この
国の形を鎌倉幕府で作
った。また、明治維新は、長州・島津家協同の日本革新
作業であったとすれ
ば、すべては、やはり、鎌倉に始まるといえよう。

義経黄金伝説」は、大江広元公墓に出会ったこの瞬間
から生まれた。
これは12世紀日本の3つの都市京都、鎌倉、平泉と、
京都王朝につかえる3
人の騎士の物語である。

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義経黄金伝説■第0章 

江戸幕府創設者、徳川家康は、鎌倉幕府の草創者である
源頼朝を敬慕し、吾妻
鏡を熟読、その政治方針の参考とした。現在に残る吾妻
鏡は欠損部が多いとい
われるが、これは徳川幕府の施政方針の一環ともいわれ
る。
徳川光圀は、「大日本史」編纂事業のひとつとして、「
義経」に関する故事来
歴を全国各地から収集させた。

それより後、明治時代になり、明治帝国政府および帝国
陸軍参謀本部は、ま
た、大陸政策を立案するべく、東京帝国大学満州探検
の奨励、満鉄調査部
研究も奨励した。いわゆる有名な研究資料「笹竜胆印の
探求」全書である。む
ろん義経遺跡の探求を目的とした、ツングース族の口承
伝承をも仔細に研究し
たといわれる。この小説の資料は、東洋文庫及び皇室に
保管されている資料を
基本とする。
第2次世界大戦後、GHQがその占領政策にあたって、日
本人の精神構造の研究
家としてその著書「菊と刀」で有名なべネデイクト女史
の指導により、持ち帰
ったともいわれている。
現時点では、この完全版資料の行方は、行方不明であり
捜索中である。この小
説は、大阪島本町にある中州興業大学歴史資料館の御協
力により、その現存す
る貴重な資料の一部部分を使用している事を付記してお
く。

●1180年(治承4年)四国白峰。

老僧が荒れ果てた神社の鳥居の前に佇んでいる。鳥居か
ら見える四国瀬戸の荒
海はひゅひゅうと音を立てて荒れすさんでいる。
「ようやく参りましたぞ、崇徳上皇様、しかし、この荒
れよう、いかにかなら
ぬものか。上皇様、上皇様、どうかお姿をお見せくださ
いませ。西行が、佐藤
義清が参りましたぞ」
西行は大声で叫んでいる。ここは四国の山中である。が
、社殿は静まり返って
いる。その静けさが、何とも恐ろしい。
「いかがなされました。何かご不満がおありになられる
のか」
「ふ……」
どこからともなく、うめき声が、あたりの静寂を破る。
突然、風が強くなってくる。空が急激に曇り始め、やが
てポツリと西行の頬を
雨脚が濡らした。
「遅いわ、西行よ。朕を、何年待たせるのじゃ。さよう
な奴輩が多いがゆえ、
京都に災いの種を、いろいろ蒔いてやったわ。四つの宮
、後白河もいやいや腰
をあげたであろう。俺が恐ろしいはずじゃ。う、悔しや
。もっとあや
つ、、、、後白河を苦しめてやるぞ」
その声は恨みに満ち満ちている。
上皇様、お待ちくだされい。民には、何の咎もござい
ませぬ。どうか、他の
人々に災いを与えるのはお止めくだされい」
「ふふう、何を言う。日本の民が苦しめば、あやつも苦
しむ。もっともっと苦
しめばよい。俺の恨みはいかでも晴れぬは」
「お聞きください、上皇様。では上皇様のための都を新
たに作るという策は、
いかがでございますか」
姿が急に途切れる。
「何、西行よ、お前、何かたくらんでおるのか。いやい
や、お主は策士じゃ。
何かよからぬことをたくらんでいるに違いない」
意を決めて、西行が顔をあげた。
上皇様、奥州でございます」
「何、あの国に」
「そうでございます。この国の第二の都を。それならば
中国にも前例がござい
ましょう」
「何、平泉を、第二の京に。そして朕を祭ると、、そう
いうことか、西行
「さようでございます」
西行は、顔を紅潮させていた。
西行、たばかるでないぞ。わかったぞ。朕は、少しば
かり様子をみる事とし
ょう。がしかし、再度謀れば、未来永劫、朕はこの国に
、祟るぞ」
風雨は、急に止み、天に太陽が姿を現す。汗がしたたり
落ちている西行の顔
は、まぶたが閉ざされている。体が瘧のようにぶるぶる
と震えている。腰は、
地に落ちている。
「これでよろしゅうございますか、兄崇徳上皇様に告げ
ましたぞ。後白河様。
はてさて、恐ろしい約束事を…。この私が平泉を第二の
京にしなければなりま
せぬなあ…」
ひとりごちている西行は、心中穏やかではない。
四国白峰にある崇徳上皇の塚だった。
崇徳上皇保元の乱で破れ、弟、後白河上皇に流された
のだ。