yamada-kikaku’s blog(小説ブログ)

山田企画事務所のペンネーム飛鳥京香の小説ブログです。

■義経黄金伝説■第1回 

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義経黄金伝説■第1回 
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第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮
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一一八六年・文治二年
 広野から見えるその山は、荒錆びた様子で噴煙をあげている。
「おうおう、何か今の時代を象徴しておるような…」
 一人の僧服の老人が、目の前の風景に嘆息をしている。心のうちから言葉
吹き出していた。その歌を書き留めている。詩想が頭の中を襲っている。
湧き上がる溢れんばかりの想い。
老人は、もとは武士だったのか屈強な体つきである。
 勢い立ち噴煙を上げているは富士の山。活火山である。

『風になびく 富士のけぶりの空に 消えて行方も知らぬ 我が思いかな』

「我が老いの身、平泉まで持つかどうか。いや、持たせねばのう」
 老人は、過去を思いやり、ひとりごちた。
 豪奢な建物。金色に輝く社寺。物珍しそうに見る若き日の自分の姿が思
い起こされて来た。あの仏教国の見事さよ。心が晴れ晴れするようであっ
た。みちのくの黄金都市、平泉のことである。

「平泉じゃ、平泉に着きさえすれば。藤原秀衡(ひでひら)殿に会える。それに
、美しき仏教王国にも辿り着ける」
僧は、自らの計画をもう一度思い起こし、反芻し始めた。
 平泉にある束稲山(たばしねやま)の桜の花の嵐を思い起こしている。青い空
の所々が薄紅色に染まったように見える。その彩は、絢爛たる仏教絵巻そのもの
の平泉に似合っている。それに比べると都市(まち)としては鎌倉は武骨、と西
行は思った。

「麗しき平泉か、、そうは思わぬか、十蔵殿」
西行は、言葉を後ろに投げかけた。
後ろの草茂みに、いつの間にか、黒い影が人の形を採っている。
東大寺闇法師十蔵である。
西行様はこの風景を何度もご覧に」
「そうよなあ、、吾が佐藤家はこの坂東の地にねずいておるからのう」
西行ー佐藤家は藤原北家、そして俵藤太(たわらのとうた)をその祖先とする。
平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(ひでさと)である。
「重蔵殿、まだ後ろが気にかかられるか。はっつ、気にされるな。結縁衆(けちえ
んしゅう)の方々じゃ。ふう、鬼一法眼(きいちほうがん)殿が、良いというのに
後詰めにつけてくだされている」
西行は一息つく。
「さてさて、重蔵殿、鎌倉に入る前、いささか、準備が必要じゃ、御手伝いいただ
けるかな」
しっかりとした足取りで、西行は歩きはじめた。

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おなじころ、奈良東大寺。大仏の鋳造も終わり、大仏殿の建築にとりかかろうとして
いる時勢である。
 治承四年(1180)平重衡の手で東大寺をはじめ興福寺の伽藍が焼かれ大仏が焼
けた折は、京都の貴族はこの世の終わりと思ったものだが、、勧進聖の手でその姿を
再びこの世に現せている。
 牛車が荷駄を載せ、大工、石工、彫師、何かわからぬ諸業の人間が一時に奈良に集
まり、人のうねりが起こっている。その活気に囲まれ東大寺の仮屋でこの勧進事業の
中心人物が、もう一人の若い僧と湯釜からでる湯気を囲んで話し合っている。
「どうでございますか。西行さまは」、
 若い僧が年老いた僧に尋ねる。
「それは西行殿が我が東大寺にためにどれほどの事をしてくださるかという問いかな
、、」
何か言外に言いたげな風情である。
「左様でございます」
 若い僧ははこの高名な僧の話し振りにヘキヘきする事もあるのだが、なんと言って
も当代「支度一番(したくいちばん)」の評判は彼の目から見ても揺ぎ無いところだ。
このような難事業はやはりこの漢(おとこ)にしかできまい。
「蒼いのを、、」
「といいますと」
言葉には、少しばかりの怒りの棘が含まれていた。
西行殿はのう、あるお方の想いで、動いておられる。人生の最後の花と咲かせるお
つもりじゃ」
「では、平泉の黄金は、この奈良の大仏の屠金はいかがなります、、
いあやはやしかし、重源(ちょうげん)さまは、西行さまの高野の勧進事業をお手伝
いされたのでは、、」
若い僧は、重源の返事に困惑していた。
「蓮華乗院の事か。ふう。あれはあれ、これはこれよ。伊勢参拝の件で恩は返してく
れている。はてさて物事どう転ぶか、な」
 
 高野山蓮華乗院の勧進西行が行っていた。治承元年(1177)の事である。
 西行の働きで、日本の歴史始まって以来初めて、、仏教僧が伊勢神宮に参拝してい
る。重源の一団である。西行は神祇信仰者であった。本年文治二年(1186)であった。
「重源様は、西行様と高野山では長くお付き合いされたと聞き及びます」
「そうじゃ、西行殿が麓の天野別所に妻と子供も住まわせておったこともしっておる。
また、弟、佐藤仲清殿が佐藤家荘園の田仲庄の事で高野ともめておった事も分っておる。
さらに、西行殿と、相国殿(平清盛)との付きあいもな、よく存じ上げておる」
 田仲庄は紀州紀ノ川北岸にあり,粉河寺と根来寺の中ほどにある。
「ああ、そういえば、和田の泊まり(神戸港)も重源様の支度でございましたな。そうか。
それで、重蔵殿を、、」
「そうじゃ。すべての結末は、黄金の行方は、平泉に、行かれてからじゃな」
 二人は、若い僧、栄西が、中国・宋から持ち帰り、栽培した茶をたしなんでいる。
 独特の香ばしい馥郁たる香りが二人をゆったりと包んでいる。

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 文治二年(1186)四月八日のことである。 鎌倉八幡宮の境内、音曲が響いてくる。
「京一番の舞い手じゃそうじゃ」
そこに向かう雑色(ぞうしき)が仲間と声高に話していた。
相方がこれも声高に答えた。

「おまけに義経が愛妾とな」
「それが御台所様のたっての願いで、八幡宮で舞うことを頼朝様がお許しになられたのそうじゃ」
「大姫様にもお見せになるというな」
「おう、ここじゃが。この混み様はどうじゃ」

鎌倉の御家人たちもまた、この静の白拍子の舞を見ようと、八幡宮に集まって来ている。
大姫は頼朝と御台所・北条政子の娘であり、木曽義仲の子供である許婚を頼朝の命令で
切り殺されたところでもあり、気鬱になっていた。

去年文治元年(1185)三月平家は壇ノ浦で滅亡している。その立役者が義経。その愛妾が話題の人、静。

平家を滅ぼした源氏の大祝賀会である。その舞
台にある女が登場するのを、人々はいまか今かと待ち兼ねて、ざわついている。


 季は春。舞台に、観客席に桜の花びらがヒラヒラと散ってきて風情を催させる。
 その時、どよめきが起こった。
 人々の好奇心が一点に集中し、先刻までのどよめきが、嘘のように静まっている。
舞台のうえにあでやかな人形があらわれた。
 舞殿(まいどの)の上、ひとりの男装の白拍子が舞おうとしている。
 頼朝から追われている源義経の愛妾静その人であった。この時、この境内の目は
すべて静に注目している。
 衣装は立烏帽子に水干と白い袴をつけ、腰には太刀より小振りな鞘巻をはいている。
 静は、あのやさしげな義経の眼を思っている。きっと母親の常盤様そっくりなのだ
ろう。思考が途切れる。
騒がしさ。ひといきれ。

 静の母親の磯禅師は今、側にはしり寄って執拗に繰り返す。
「和子を救いたくば、よいか、静、頼朝様の前での舞は、お前の恭順の意を表すもの
にするのです。くれぐれもこの母が、どれほどの願いを方々にしたか思ってくだされ。
わかってくだされ。よいな、静」
涙ながら叫んでいる。
 が、静にも誇りはあった。

 母の磯禅師は白拍子創始者だった。その二代目が静。義経からの寵愛を一身に集め
た女性が静である。京一番といわれた踊り手。それが、たとえ、義経が頼朝に追われようと…。
 静は母の思わぬところで、別の生き物の心を持った。
要塞都市、鎌倉の若宮大路。路の両側に普請された塀と溝。何と殺風景なと静は思った。
その先に春めいた陽炎たつ由比ガ浜が見えている。その相模の海から逃れたかった。
  かわいそうな一人ぼっちの義経様。私がいなければ、、
そう、私がここで戦おう。これは女の戦い。知らぬうちにそっと自分の下腹をなででいる。
義経様、お守り下させ。これは私の鎌倉に対する一人の戦い。別の生き物のように、ふっきれたように、静
の体は舞台へ浮かんだ。
(続く)