yamada-kikaku’s blog(小説ブログ)

山田企画事務所のペンネーム飛鳥京香の小説ブログです。

義経黄金伝説■第10回 

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義経黄金伝説■第10回 
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(C)飛鳥京香・山田博一
http://www.geocities.jp/manga_ka2002/

第2章4 1186年 鎌倉■■■■

西行は文覚に言う。
「文覚殿、西行はこの世を平和にしょうとおもうのだ」
「平和だと、うろんくさいこと言うな。おぬしの口からそんな言葉がでようとは」
「では、この国の形を変えると、申しあげればどうだ」
「くっつ」
文覚は苦笑いしている。
その笑いは同じく、文覚もまた国を変えようとされているからである。
「何年たっても,私の考えがおわかりにならぬか」
「わかりたくもない」
「で、源頼朝殿から頼まれて奥州の藤原秀衡殿を呪殺されようというわけか」
「主は何を企む。平泉と何を企む。まさか、」
文覚はある考えを思う。
「主は崇徳上皇にも取り入り、弟の後白河法皇に取り入
り、また平泉にも取り入るつもりか」
崇徳は30年前、1156年保元元年、弟の後白河法皇に敗れてる。保元の乱である。この後、四国に流されている。
「文覚どの、鎌倉には法皇の命令で、今は鎌倉の味方か」
「だまれ、西行、貴様こそ、由緒正しい武士でありながら、しきしまみち」を使うとは、武家である先祖に対して申し開きできるか」
「文覚どの、その言葉そのまま返そう。お主も武士でありながら呪殺を江ノ島祈願いたしておろう」
「うぬ。敵、味方はっきりしたならば、お主を平泉に行かせまい」
「よろしいのか。大殿とのの命は」
確かに頼朝の命令は、西行を平泉に行かせよである。
「しかたがないのう。ここで雌雄を、」
二人はにらみ合っている。
恐るべき意識の流れがそこに生じていた。
御師匠様、おやめ下され」
かたわらにいる子供が言いた。
子供ながら恐るべき存在感がある。その顔は夢みる眦に特徴がある。
「おおう、夢見か。わかった。この西行殿が顔を覚えておけ」
西行様、夢見でございます。京都神護寺からまいりました。師匠さまの事よろしくお願いいたします」
夢見、後の明恵(みようえ)である。法然と宗教上で戦うこととなる。そして日本の運命、精神革命を行うことになるのだが、
二人の背後に、集団が近かづきつつあった。
「くそ、西行、味方が増えたらしいのう。集団で動くか。お主も、勝負はいずれじゃ,その時をまちおれ」
「生きて合えればのう」
西行も悪態をつく。

 二人はふた方向にわかれた。
西行様、ご無事で」
いつのまにか、東大寺闇法師十蔵が控えている。が、笑いをこらえている風情である。
「おお、十蔵殿あいすまぬ。」
汗をかいている。
「ふふ、ワシとしたことが、つい歳を忘れてしまう。あやつにあうと」
にが笑をしている。
「文覚殿とは、お知り合いでございますか」
「古い付き合いよ。北面の武士以来だ。」
西行は、出現した廻りの集団が気に成っている。
「結縁衆(けちえんしゅう)の方々、お助けのしだいありがとうござる。何でもござらぬ。もう終わり申したぞ」
十蔵の言葉に、近くの樹木の影にいた多くの人の気配がすべて消えていた。西行はにがりきった笑いをする。
「鬼一法眼(おにいち)殿の手下か」
先ほどの手勢は、方眼が京都から連絡した結縁衆であろう。密かに西行を守っている。鬼一が、友人の西行のために護衛集としてつけたのだ。
十蔵は、西行にも、文覚との先刻のような面があるかと思い
微笑んでいる。この有名なる京都「しきしきみち」の漢(おとこ)西行に子供のけんかのような、、
「あの子僧の方が気にかかります。なにやら恐ろしげな、、」
重蔵はつぶやいている。

 西行は生涯を通じて、交渉者たらんと欲した。佐藤家という彼の出自が大きくものをいっていた。時代は西行のような斡斡旋者を強く要求していた。保元の乱から始まる源平合戦は、古代より続いた貴族社会に住む人々にとって、青天の霹靂であった。仏教でいう末法がと思われた。
 武士という自分たちのルールに従わない人種が出現し、あれよあれよという間に政治の仕組みに食い込んで来た。そして、土台ごと乗っ取られていることに気がついたのである。
 古来から貴族たちは、血が流れるのを嫌った。自分の勢力拡大のために、流れる血は気にしなかったのだが。今の血の流れている戦いは別種であった。古の壬申の乱以来である。
 西行は源氏にも平家にも顔が効いた。まして、相国(しょうこく)平清盛入道とは、北面の武士のおり、同役であった。

また征夷大将軍坂之上田村麿ゆかりの、京都神護寺(じんごじ)の文覚とも同役であり、顔見知りであった。平家往時のおり、西行の庵は六波羅のすぐ側にあった。

 六波羅は鴨川の東岸にあたり、鳥辺野の真ん中に位置する。平家政治集落の様相を呈していたのである。また、六波羅
清水寺への参道に位置していた。
京の動きは街道の人の行き来から判断することができた。

 西行に、上皇をはじめ、院、貴族層が気を許したのは、その歌の作詞能力(しきしまみち)であった。古代からの歌の伝統を踏まえ、美しい歌をつくることができる西行は、貴族たちと同じ人種であることを意味した。西行は、平家、源氏、貴族、そして寺社勢力、両方面に顔が効き、出入りができたのであ
る。
 源平の争乱のとき、西行は伊勢の草庵に隠遁していた。そして、西行、最後の賭けの時が六十九才のおりに訪れて来た。

西行の動き、あるいは言葉の一つで、この微妙なバランスで保たれている。日本の政治状況が変わるかも知れなかった。
 西行は変えようとした。
 彼は政党を持たない一個の政治家であり、思想家であった。

(続く)
(C)飛鳥京香・山田博一
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